中野司教のことば

ご挨拶=感じたい「教区の一体感」

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中野裕明鹿児島司教

鹿児島教区の司祭団、修道者、信徒のみなさまへ、新年を迎える前に、紙面を通してご挨拶と感謝を申し上げます。

10月8日の司教叙階式のために、たくさんのお祝いの言葉と、お祈りをいただきました。会場を準備してくださった方々、式に参加してくださった方々、様々な都合で式への参加はかなわなくても、お祈りで支えてくださった方々に衷心より感謝申し上げます。

叙階式後、身辺の整理が整わないまま、現在、司教として事前に定められていたスケジュールをこなしている状態です。

叙階式前は、「司教任命おめでとうございます、でも大変なお仕事ですよね」とか「よくぞ司教職をお引き受け下さいました」など、いたわりと慰労の言葉もいただきました。最近では、特に以前から親しくしていた人たちから、「司教になられて、どんな感じですか」とよく聞かれます。頂いたこれらの言葉を、吟味するうちに「中野裕明」という個人に向けられているというよりも「神様が定めた司教職というもののすごさに驚かされている」というのが現実です。

そこには、司祭だった頃の自分とは違う、12使徒の後継者として「キリストの意思を世に示す存在としての司教の使命が私には課せられているのだ」という強い思いです。このような使命を果たすのに私は相応しくないとか、できれば返上したい、という思いがないわけではありません。換言すれば、もっと気軽に司祭職を果たしたい、そんな思いは、司教叙階式を境に霧散してしまいました。

つまり、鹿児島教区の全信者との一体感です。全信者を自分の体の一部のように感じるということです。換言すれば、司教である私が転べば、鹿児島教区の民全体が転ぶということです。逆に、私が聖性に富む人間になれば、神の民全体は聖性に富むようになる、ということです。

毎日のミサの中で、司祭方は、全世界に奉仕する教皇様と鹿児島教区で奉仕する私の名前を唱えて、祈ってくださっています。上記した私の小さな気付きは、2000年も前から、司祭だけが代表して唱えるミサの奉献文の中で実践されていたものでした。それが今、鹿児島の地で実効あるものとなるように祈念します。

聖パウロや使徒たちは、ご存じのように、手紙(書簡)という方法で、信者との交信を図りました。私も聖人たちに倣い、この方法を用いたいと思います。よろしくお願いします。

【鹿児島カトリック教区報2018年12号から転用】

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序論:「八つの幸い」・「地の塩・世の光」 配布資料 第2講レジュメ

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