司教の文書

【2024 年頭の辞】---《2024年 年間目標》洗礼の恵みに気づき、それを生きよう

投稿日:2023年12月28日 更新日:

中野裕明鹿児島司教

中野裕明鹿児島司教

鹿児島教区司教 中野裕明

教区の皆さま、新年明けましておめでとうございます。旧年中に皆さま方から頂いたたくさんの祈りとご協力に対し、感謝申し上げるとともに、今年もどうぞよろしくお願いいたします。皆さまの上に神の豊かな祝福がありますように。

教区目標

さて、私は、今年の標語(目標)として「洗礼の恵みに気づき、それを生きよう!」を掲げました。この標語は、昨年10月に開かれた「教区評議会」で話し合われた事柄を踏まえて、その後の司祭評議会で示された教区の具体的な動きを推進するために必要で基本的な信仰上の確認事項であります。

私たちが集っている「教会」は、「父と子と聖霊の御名によって」洗礼を受けた信者によって構成されています。私たちはこの1年、「信者」つまり洗礼を受けた者の自覚を深めていきたいと思っています。

幼児洗礼と成人洗礼

信者は、洗礼を受けたその時期によって、2種類に区別されます。それは「幼児洗礼」と「成人洗礼」の信者です。この2種類の信者についてお話しします。

「幼児洗礼」とは、家族の意思、あるいは、親の意思で幼児の時に受洗したもので、本人の意思あるいは同意はありませんでした。カトリック教会は伝統的にこの幼児洗礼を有効なものと認めています。

その子に対して、また、その子の将来の幸せを確証させるために行使される幼児洗礼は、当然親の親権の行使として認められ、勧められます。但し、洗礼は秘跡(見えない恵みの見えるしるし)ですが、自動販売機のように簡単に幸せが手に入るものと考えてはなりません。

その子が成長し自己判断ができるようになった時、親はその子に洗礼を授けた理由をきちんと説明できるように常日頃から準備しておく必要があります。なぜなら、親はその子に代わって洗礼を望み、信仰告白をしたのですから。

「成人洗礼」とは、理性がはっきりしていて、自分の自由意思で受洗した人のことです。歩んでいた人生のある瞬間にキリストと出会い、キリストを知り、キリストの示す道を歩き、キリストに倣って生きていくことを決意した人のことです。

この二つの洗礼のかたちは、「親子愛」と「隣人愛」の関係で捉え直すことができるのではないかと思います。つまり、幼児洗礼を親子関係で、成人洗礼を隣人関係で捉えるという事です。

親子関係

先ず、幼児洗礼から説明します。夫婦は、その子の受胎を知った瞬間からその子を愛し始めます。しかし、聖パウロは次のように言っています。

「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(エフェソ1・4~5)。

この聖パウロの説明を聞くと、私たち信者は神によって召された者であることが分かります。そして、聖パウロが言うところの、神のお定めが私に実現したのは、私を愛したくれた親の決断による、という風に理解できるのです。

イエスが洗礼者ヨハネの洗礼を受けた時、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3・17)という声が聞こえました。これは天の父による我が子への認証であります。この認証を受けてイエスは「死と復活」による人間の罪からの解放という自己犠牲を伴うわざの実現のために邁進することができたのだと思います。

隣人関係

一方、「成人洗礼」の人においては、人生を誠実に生きる中で、どうしても遭遇する対人関係での挫折や裏切りを経験する度に、救いへの希求が芽生えます。そして、人を根本的に拘束している原罪の存在に気づき、それを取り除いてくれるイエスに出会います。

ユダヤ人の教師であったニコデモとイエスの対話は、洗礼の意味についてのものです。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と問いかけるイエスにニコデモは答えます。「年を取った者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。それに対してイエスは、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と返答します。(ヨハネ3・1~21参照)

ニコデモの考えは、現実的で、科学的です。しかしそれを凌駕する答えをイエスは示します。それは、洗礼によって、人は生まれ変わることができるという告知です。このことを聖書のことばでは、回心(メタノイア)と言います。洗礼の時、受洗者は神への信仰宣言の前に悪魔とその栄華との決別を宣言します。ニコデモとの対話の最後にイエスは次のように言います。

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇を愛した。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかにされるためである」(ヨハネ3・19~21)。

その後ニコデモが洗礼を受けたかどうかは不明です。ただ、イエスの埋葬の場面で、「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持ってきた」(同上19・39)と記されています。ヨハネ福音史家の細やかな配慮を感じます。ユダヤ教の教師という社会的地位にあり名誉を受けていたと思われる彼は、心の奥底で、イエスと通じていたのだと思います。

この1年、皆さまにお願いします。ご自分の洗礼の経緯を思い起こし、イエスとの関係が今どうなっているのかを問い直してみてください。

鹿児島カトリック教区報2024年1月号から転載

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