門田明氏の鹿児島とキリスト教⑬
これまで、鹿児島に滞在したザビエルについて話してきた。1549年8月15日鹿児島に来た彼は、2年近くこの地にとどまったが、1551年にここを去り、京に向かった。
かねてからミヤコに行きたいという希望を書簡でも語っている。『季節風が吹かないために、日本の国王や大諸侯たちがいるミヤコへ行くことができません。今から5ヵ月後にはミヤコへ行くための季節風が吹きはじめますので、主なる神のお助けによって、順風に乗り、旅路を歩みましょう。』(1549年11月5日、ダ・シルヴァ宛)
ザビエルが得ていた情報によれば、当時京都には9万6000戸の家があり、リスボンより大きい町だとマラッカに書き送っている。ミヤコに向かったザビエルは、まず平戸に行く。「そこでは領主(松浦隆信)が私たちをたいそう歓迎してくれましたので、そこに(2ヵ月間)滞在して100人ほどの人たちを信者にしました。」(1552年1月29日、イエズス会宛)
ザビエルはさらに足を延ばす。「フアン・フェルナンデス(鹿児島で信者になったベルナルド)と私は、日本(で最強)の領主(大内義隆)がいる山口と呼ばれる地へ行きました。この町には1万人以上の人びとが住み、家はすべて木造です。」ザビエルは幾日間も街頭に立ち、毎日二度話し、大勢の人が説教を聞きに集まったという。もちろん彼の話を馬鹿にして反対する者もあり、結果としては信者になった者は少数であった。
こうして「活動の成果が挙がらないのを見て、私たちはミヤコと呼ばれる全日本の首都へ行く決心をしました。(平戸から京都へは)二ヵ月間の旅程でした。」(同上)ということになった。
随分危険な旅をしてミヤコに到着し、ここに11日間滞在したという。天皇に会い、全国宣教の許可を受けるつもりであったが、戦乱でミヤコは荒れ果て、実現の可能性は皆無と分かった。こうしてザビエルはもう一度山口に引き返し、この地で宣教に励むこととなった。(玉里教会信徒・ザビエル上陸顕彰会会長)
鹿児島カトリック教区報2007年6月号から転載