聖年は2015年12月8日~2016年11月20日
鹿児島教区に信仰の新しい伝統を作りたいと思っています。第二バチカン公会議後、日本の教会はいち早く改革を推進し、新しい教会の姿を作り上げてきました。とくに、鹿児島教区では、他の教区に先駆けて司牧評議会制度を確立し、小教区運営の形を公会議の精神に沿ったものとしました。それは、誇るべきことでした。
しかし、一方で、聖堂のベンチから跪き台を一斉に撤去した例に代表されるように、信者たちに慣れ親しんできた信仰生活の良い伝統を放棄してしまったのも本当です。具体的な信心行為もさることながら、ミサ以外のことに対する過小評価が進んだということです。それは、よく言えば、ミサに対する正しい理解が深まったということなので喜ばしいことではあるのです。
信心行為は潤いのある信仰生活の潤滑油
前にも書いたと思うのですが、信仰生活を潤いのあるものにするために、信心行為は潤滑油の働きをします。主食と副食の関係と言っていいと思います。それでも物足りない人々にとっては様々なサプリメントが重宝されています。
お隣韓国の教会をはじめ、アジア各国の教会はどの国でも信心行為が盛んで、教会は大元気です。日本の教会がどこか静かすぎて生気を感じないのはどうしてでしょうか。日本の文化が他のアジアの国と違うからでしょうか。確かに日本の独自性というのがあります。日本の教会は、スマートで理知的な感じもします。だからでしょうか、例えば、マリア様や聖人の御像の前で信者たちがローソクをともして祈る姿を見たことがありません。ですから、聖堂内はススで汚れることもなく清潔で、それだけに、生活の臭いがしないのです。
ところで、フランシスコ教皇の人気の秘密は、この人間臭さというか常に人々に寄り添おうとする姿勢ではないかと思います。あえて言いますが、そんな教皇には信心行為が似合います。理由は簡単です。信心行為はいわば民間信仰と言っていいと思います。だから、教皇は民衆が大事にしてきたものにも寄り添ってくださるに違いないと思えるからです。
特別聖年を機会に「いつくしみの信心」を
先ずはこうした認識を持ったうえで、鹿児島教区としては、新しい信仰の伝統を残していきたいと思っています。ノベナの祈りの推奨もその一つです。今回始まるいつくしみの特別聖年を機会にもう一つ、「いつくしみの信心」を勧めたいと思います。いつくしみの祈りの花束と呼ばれるお祈りが中心となりますが、各小教区で説明書と祈りのカードが配布されることになっています。是非取り組んでいただきたいと思います。
ちなみに、ポーランドで始まったこの信心はバチカン大使館からも提案されている世界的広がりを持ったものです。
司祭の一義的任務は祈りとみ言葉を説くこと
最後に、親愛なる司祭の皆さんにお願いします。司祭の一義的任務が祈りでありみ言葉を説くことであることを再認識していただきたいと思います。家庭生活者よりも多くの自由時間を持つことができるですから、ミサと祈りの時間を惜しんではなりません。主日のミサは皆さんの信仰の姿を分かち合うときです。いわゆるお説教ではなく皆さんの信仰の言葉をこそ信徒は聞きたがっています。それこそが、この特別聖年における皆さんの羊に対するいつくしみの奉仕であるのです。
信仰のことばは、信徒たちの中で生きて働くことを心に刻んでいただきたいと思います。そして、信徒に寄り添い、一緒に新しい信仰の伝統を作りあげていただきたいと思います。
鹿児島司教 郡山健次郎